The truth

 クライン第二王女の婚礼の日取りが決まったと、国王から通達が下ったのは、春も終わりのころ、汗ばむほどの陽気に涼風を待ち望む、とある午後の日であった。
 その知らせを(たずさ)えた使者が現れたのは、王女の私室。おりしも、互いの忙しさにかまけて、最近疎遠になりかけていた皇太子と王女が、兄妹の不仲説を払拭する為にだけ開かれた茶会の席であった。
 ぎこちない会話を、言葉少なに交わしながら、ただ瞳だけで、互いの想いを重ねあう。
 取り繕った時間を、使者の知らせは凍りつかせた。
「日取りが決まったと・・・そう言ったのか?」
 クライン皇太子、セイリオス・アル・サークリッドは、射殺さんばかりの眼光を、その紫の瞳に宿らせて、使いにたった侍従を見詰め、当事者となったディアーナ・エル・サークリッドは、顔色を失い凍りつく。
「は・・・」
 消え入るような応えに、皇太子の目が細められる。
「して、相手は誰だ?」
 涼やかな声は、聞く者を氷壁の谷へ落とすのでは無いかと思える、冷気が満ちている。
 侍従は、何とか声を絞り出した。
「シ・・・シオン・カイナス様にございます・・・」
「シオン・・・?」
 ゆらりと、皇太子が席を立つ。
 その動作は、身に付いた気品そのままに、あくまでも優雅であったが、使者にはまるで、幽鬼が立ち上がったかのように見えた。
「父上・・・いや、陛下に目通りする。先触れに立て」
 呪縛が解け、侍従は脱兎の如く部屋を飛び出す。
 その後ろを追うように歩き出した皇太子の耳に、かすかな声が届く。
「お兄様・・・」
 蒼白となった妹が、ひたと兄を見詰めていた。
 小さな体は、哀れなほど小刻みに震えている。
「ディアーナ・・・」
「なぜ・・・なぜシオンが・・・どうしてシオンですの?」
 姫君は弱々しく首を振る。
「クラインの為。何時かは嫁ぐ・・覚悟はしておりましたわ。でも・・・それがシオンだなんて」
 震える姿に思わず伸ばしかけた腕を、咄嗟に押しとどめる。長い指が、皮膚を抉らんばかりに握り締められる。
 もはや、触れる事すら許されない、己にかけた枷。
 セイリオスは、周りに(かしず)く侍女達に気付かれぬよう踵を返すと、きつく奥歯を噛み締めた。
「父上に事の次第を伺って来る。お前は待っていなさい・・・」
 言い置き、皇太子はそのまま王女の自室を後にした。


 謁見室には、見慣れない光景があった。
 病身にあり、その職務を皇太子に一存し、めったに公の席には姿を現さない国王が、その玉座に座していることと、その御前に、最上位の礼を執り、片膝を立てて(ぬか)ずく男。
 宮廷筆頭魔導士シオン・カイナス。
 平素ならばこんな公の場には、近寄りもしないはずの男がそこにいた。
 黒い魔導士の衣に身を包み、一つに高く結いあげた蒼髪は、今は優雅な流れを描いて床に文様を見せている。
「シオンよ・・・ディアーナを頼んだぞ」
「喜悦の至り・・・」
 眉を緩めた国王の言葉に、魔導士はその端正な面を、さらに深く下げた。
 皇太子の先触れが、血相を変えて飛び込んできたのは、もはや謁見も終わり、国王が席を立とうとした時である。
「セイリオス。知らせは聞いたか?」
 満足そうな父に、儀礼に則り礼を執った皇太子は、鋭い視線を義弟となる男に向けた。
「はい・・・」
 怒気を孕んだ視線に気がつかない男では無いだろうに、魔導士は微動だにせず、静かな表情で皇太子を見詰め返していた。
「シオン・・・どういう事だ?」
 親友を睨みつけ、寝耳に水の事態の是非(ぜひ)を問う。
 だが魔導士はかすかに笑っただけで、何も答えようとはしない。
 変わりに、喜びを隠さない国王が、世継ぎへ満面の笑みを向けた。
「シオンがディアーナを妻にと望んだのじゃ。救国の英雄であり、カイナス家の三男。これほどの良縁はまたと無いぞ」
 隣国ダリスの脅威を、この魔導士の知略によって回避し、さらにダリスの領土をクラインに併合してのけたのは、まだ記憶に新しい。これによってクラインは、二倍の領土を得たのである。
 その立役者となった魔導士が、王女を(めと)る。
 名門貴族の出自でもある彼ならば、王族の姫が降嫁するのに、なんら支障も無い。
 予てから第二王女を慈しんできた国王にとっても、他国に嫁がせるよりもずっと喜ばしいことに違いなかった。
 だが、皇太子には納得ができない。
 この男が、権謀術策を好み、自分にすら本音を見せない男だとか、『クラインの華は尽くカイナスの庭に咲く』とまで言わさしめた、名うての艶福家(えんぷくか)であるというのは、嫌というほど判っている。そんな事では無い、彼が心に秘める、唯一の真実を知っていたから。いや、知っていると思っていたから、親友の意外な行動に、裏切られた気持ちになっていた。
「お前が、こんなことをするとは思わなかったぞ・・・お前は・・・」
「皇太子殿下・・・一族の末席に、下賎な魔導士が名を連ねることを、お許し願いたい」
 激昂するままに、口走ろうとした言葉を、魔導士の静かな声が制止した。
「我が望み叶いしあかつきには、このシオン・カイナス。以前にも増して、クラインが為、尽力させていただく所存にございます」
「うむ。期待しておるぞ。婚礼は一月後じゃ、用意を整えよ」
 満足した国王は席を立ち、愛情を込めて皇太子の肩を叩くと、そのまま謁見質を後にした。
 家臣の立ち並ぶ公の場では、うかつな振る舞いもできず、ただ額ずく魔導士を睨みつけていた皇太子を、他の者たちは、相変わらず妹姫を溺愛する兄だと、少し困ったように眺めているだけだった。
 

「どういうつもりか言ってみろ」
 無言のまま執務室に戻った皇太子の後に続いて、渦中の魔導士が現れると、彼は即座に人払いをして、親友だったはずの男に詰め寄った。
「なんだ?」
 常と同じ皮肉な笑みを浮べる魔導士は、取り乱した皇太子を静かに見返している。
「なんだでは無い。ディアーナを妻にとは、何のつもりだ?」
「聞いた通りだ、姫さんを嫁にもらう」
 飴色の瞳には、何の感情も浮かばない。
「だからどうしてだ?お前はメイを取り戻すと言っていただろう?」
 ダリス戦の後、クラインから姿を消した少女がいた。
 メイ・フジワラ。
 ダリス瓦解の、本当の立役者である。
 明るく、どんな逆境にも負けない、強い精神の少女は、皆を魅了し、そして、評判の女誑(おんなたら)しですら陥落させた。
 魔導士が少女にかける愛情は、今までの浮名が信じられないほど一途であり、少女が消えた後、彼は、何とかして彼女を取り戻すと言い、その方法を探して隠者のような生活をしていた。
 少女はもともと、異世界からこの地に偶然呼び寄せられた異世界人だった。元の世界へ戻った少女を呼び戻す手段は、無いに等しい。それでも魔導士は、決して諦めないと、皇太子に語ったのだ。
 それが今になって、いきなり王女を娶るというのだ、皇太子には、親友の心根が判らない。
 だが、魔導士は、永遠の恋人と呼んだ少女の名を聞いても、軽く肩を竦めただけである。
「メイか・・・俺を捨てて帰っちまった女なんか、追いかけたってどうしようもねぇだろう?」
 皮肉な笑みを深めて、再び信じられないような言葉が紡がれる。
 見知らぬ者を見るように、皇太子が瞠目した。
「本気で言っているのか?私に言った誓いは、嘘だったのか?」
「あん時はあん時。今はいまだ。今は、色々やった褒美に、姫さんを貰う。それだけだ」
 怒りで声も出ない皇太子に、魔導士がにやりと笑う。
「姫さん取られて、悔しいのか?」
「!」
 何とか取り繕う態度の、全ての根底にある感情。
 血の繋がらない、妹に対する恋情。互いに心を寄せていると、判り合った上で、心に秘めあうしかない想い。
 最大の理解者だった筈の魔導士は、悪意に満ちた残忍な笑みを浮べる。
「いい女になったぜ、姫さんはよ。(たと)え他の男を追いかけている女でも、もう俺のもんだ」
 怒りに震える皇太子に、魔導士の(あざけ)りが飛ぶ。
「それとも、自分の女に手を出すな、とでも言うのか?え?お前に何ができる?」
 これがこの男の本性だろうか?今まで見せていたのは、偽りだったのか?
 怒りに霞む目で、ともすれば殴りかかろうとする激情を押さえ、皇太子は歯を食い縛った。
「出て行け・・・お前の顔など、もう二度と見たくない・・・」
 後ろを向いた皇太子の背後で、扉が静かに閉められた。


 王女は泣いていた。
 その涙は枯れる事を知らず、はらはらと零れ落ちる。
 婚礼が決まって、既に三日が経っていた。三日の間、姫君は嘆き続けている。
 寝室に篭ってしまった姫君に呼ばれた、王女付き近衛騎士シルフィス・セリアンは、震える肩を抱きしめて、どうして良いのかわからなかった。
 親友の恋人だと思っていた魔導士が、彼女を忘れて王女を娶る。
 信じられなかった。回りすら微笑ませる、賑やかで優しい二人の姿は、今でも鮮やかに思い出せる。
 心から互いを求め合う、真実の姿だと思っていた。
 それなのに、彼女が元の世界に帰ってしまった今、あれはもはや過去の事になってしまったのだろうか?
 女騎士の夫である、緋色の魔導士キール・セリアンは、今も少女を取り戻すと言った魔導士に協力すべく、召喚魔法の研究に没頭していた。
 その夫の努力すら、あの魔導士にはどうでもいい事になったのだろうか?
 女騎士は、どうにもやりきれない思いでいた。
 第一、 この王女の、真の想い人は、別にいる。
 自分にも教えてもらってはいないその人物を、シオン・カイナスは良く知っているはずなのに、今までの信頼すら突き破って、婚礼の日取りを決めてしまった。
 訳が判らない。
 ただ涙を零しつづける姫君の背を、そっと撫ぜ続けるしかできないでいる。

 俄かに、部屋の外が騒がしくなった。
「お待ちください・・・御無体はお止めください」
「許しは貰っている・・・」
 慌てて制止する侍女たちの声と、低く、静かな男の声が聞こえる。
 びくりと、姫君の背が震えた。
 抱きしめる腕に、少しだけ力を入れて、シルフィスはドアを強い目で見据える。
 程なく、侍女を振り切った魔導士が、さも当然と言った顔で、王女の寝室に踏み込んできた。
「おう、シルフィス。居たのか?」
 にやりと笑った顔を見て、女騎士は我にも無く寒気を覚えた。
 平素と変わらぬ皮肉な笑みを浮べていながら、その飴色の目には一片の柔らかさも無く、まるでそこに、闇そのものが立っているかのような印象を受ける。
 あの、飄々(ひょうひょう)として、軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)な魔導士は、どこにも居なかった。
「シオン様・・・」
「悪ぃなシルフィス。ちょいと席を外してくれ」
 静かで居ながら、有無を言わせぬ口調に、しがみつく姫君の腕に力がこもる。
「駄目です・・・ここにいて、シルフィス・・・」
 涙で擦れた声が、震えながら最後の防壁に縋ってきた。
「シオンこそ、無礼でしょう?お下がりなさい」
 硬い声に、魔導士は軽く肩を竦めた。
「陛下の許しは貰ってあるぜ。婚約者が妻になる女の部屋にきて、何が悪いんだ?」
「わたくしは、貴方の妻になどなりません。帰ってちょうだい!」
 悲鳴のような反論をまったく意に介せず、魔導士が近寄ってくる。
「シルフィスの目の前で手篭めにされたくなかったら、下がらせるんだな」
 あまりの言いように、翡翠の瞳に敵意がこもる。
「シオン様!」
「下がれシルフィス。お前には用がねぇ。そうすりゃ何もしない。話がしたいだけだ」
 あくまでも静かに魔導士が答える。端正な顔には、何の感情も浮かんでは居ない。
 女騎士はそっと姫君を伺い見た。
 桜色の髪が揺れ、回されていた手が外される。
 そのまま寝台に突っ伏してしまう王女に、後ろ髪を引かれつつ、闇の塊のような魔導士を睨みつける。
「次の間に控えております・・・」
 もう何も答えない魔導士を見据えながら、シルフィスは静かに部屋を出た。
 
「いつまでそうしているつもりだ?こっち向けよ」
 魔導士が冷たい声で促す。
 桜色の髪が激しく振られ、姫君は身を硬くした。
「ベッドに寝っ転がって、俺を誘ってるのか?ご期待に応えても良いんだぜ」
 あざける声に、渋々と身を起こす。
 涙で濡れた紫の瞳が、意外な強さを持って魔導士を睨み返してくる。皮肉な笑みが、さらに深まる。
「良いねぇ、色っぽいぜ姫さん。他の男を想って泣く女を抱くのは、また格別だからな」
 下卑た言葉を連ねながら、魔導士がさらに近寄ってくる。
 寝台の上で王女は後退った。
「近寄らないで、汚らわしい」
 闇が笑う。
 喉の奥で響く笑いに、王女ははっきりとした恐怖を感じた。
「怖い怖い。気の強い女は好きだぜ。ま、泣こうが(わめ)こうが、後少しでお前さんは俺のものだ。・・・・・・あいつは何もできない・・・」
 寝台が軋み、不意に長身が圧し掛かる。
 悲鳴をあげようにも、喉は呪縛されたように引きつって、小さな(うめき)がでただけだった。
「頭の中で、いくらでもセイルのことを考えていればいいさ。だが体は俺のものになる。一生縛り付けて、二度とあいつにも会わせない。覚悟するんだな」
 ふれるかふれないかの距離で、唇に息がかかる。肩を押さえ込み、重い男の体が全身に押し付けられる。
 ふわりと、花の香りがした。
 その香りだけが、以前の彼と同じだった。
 どうしてこんなに変わってしまったのか?
 かつて、親友が頬を染めて、問い詰める自分に想い人を白状した日のことが、昨日のように思い出される。
 全ては偽りだったのだろうか?
「あ・・・貴方のような人を、メイが好きだったなんて・・・可哀想ですわ・・・」
 飴色の瞳が細められる。一瞬何かがかすめたように見えたが、発された声は、さらに冷たかった。
「あいつは、俺を捨てて帰ったんだぜ」
 そのまま更に顔が近づく。必死で背ける頬に、(まが)い無き(おす)の息がかかる。
「嫌っ・・・セイル・・・」
 弱く呟いた時、不意に体にかかる重圧が消えた。
 同時に重いものが叩きつけられる音が響く。
 そっと目を開けた先には、壁際に(うずくま)った魔導士と、仁王立ちになった皇太子が居た。
「シオン・カイナス!喩え婚約者といえど、王女への無礼は許さんぞ!」
 一喝し、そのまま魔導士を睨み据える。
 女騎士が姫君の元へと駆け寄ってきた。
「姫、ご無事ですか?」
 震える体を両手で押さえながら、王女は頷いた。
「ええ・・・大事ありません・・・お兄様が助けてくださいました・・・」
 救い主に、そして、何よりも愛しい想い人に向けられる視線は、人目を(はばか)りつつも熱く注がれる。
 魔導士は笑みを浮べたまま、ゆらりと立ち上がった。
「遅かれ早かれ、俺のものになる女だ、どうしようが文句言われる筋合いじゃねぇぜ」
 捨て台詞のようなことを言い。魔導士が皇太子を見詰め返す。
 殴られたらしい口の端から流れる血を、無造作に指で拭う。
「お前に何ができるんだ?姫さんの嫁入り道具、整えるぐらいしか、する事はねぇだろう?そう・・・お前には何もできない。する勇気も無い・・・」
「シオン・・・私を愚弄するか?」
 剣を抜かんばかりの剣幕に、魔導士が肩を竦める。
「やれやれ・・・まあいいさ。後一月だからな・・・じゃあな姫さん。式を楽しみにしているぜ」
 くつくつと笑いながら魔導士が踵を返す。
 皇太子と同じようにその後姿を睨んでいたシルフィスは、闇そのもののような背に、ふと、白い光が掠めたような気がした。
「?」
 だがそれは一瞬で、兄に縋り付く姫君と、それを受け止め、しっかりと抱きしめる皇太子の姿に目を奪われてしまった。


 魔導士は、王女降嫁に向けて準備を進めているらしい。
 王宮に程近い森の中にある、長く無人だった屋敷を買い取り、王女の好みに合わせて改装をしていると、知らせの者が伝えてきた。
 王女はあれから自室に篭りきりになり、皇太子はただ黙々と執務を遂行していた。
 その姿は、日を追う毎に鬼気迫る苛立ちを帯び、侍従達は、溺愛する妹姫を手放すのが辛いのだろうと案じていた。
 
 皇太子は、婚礼の日程を取り決めた書類を睨み、長い間端坐(たんざ)していた。
 こまごまと、細部に渡り形式に則ったそれは、王家と、名門カイナス家との婚姻にふさわしく、厳粛であり豪華なものだった
 紫の瞳が、ゆっくりと閉じられる。
 あの日の光景が、まざまざと思い出された。
 迂闊にも、暗殺者の姦計に乗せられ、深手を負った自分。最後の時を覚悟して、彼は妹に会いたいと望んだ。
 あの、町の片隅の宿で、二人は思いを打ち明けあった。
 互いが想いあっていたという喜び。そして同時に、この国に居る限り、決して添い遂げる事はできない絶望。
 二人はそこから逃げてもよかった、だが、皇太子としての自分が、それを許さなかった。
 もっとも、立ち上がるのさえままならない体では、どこまで逃げられたか判らない。
 だが、信じていた友に裏切られ、何よりも大切な女性を、守りきることすらできない今を判っていたなら、喩えほんのわずかの余命だったとしても、全てを捨てて逃げるべきだったのかもしれない・・・
 国の行く末、血の繋がらない自分を、実の子として愛情を注いでくれる父王。慕ってくれる臣民・・・あの時と同じように、さまざまな物が脳裏に浮かぶ。
 絶望の闇の中、枷に雁字搦(がんじがら)めとなった自分に、唯一とどく光・・・光を纏った、唯一の名前・・・
「ディアーナ・・・」
 セイリオスは、ゆっくりと立ち上がった。


 王宮から伸びる抜け道は、かなり古いものだ。
 まだ国が安定せず、王族の身に危険が及ぶ事も多かった建国期に造られたものだからである。
 皇太子の私室からも、抜け道が一つあった。
 あまりにも古く、使うのも躊躇われたが、その道は、意外にも最近整備されたかのように整えられていた。
 不安に苛まれる姫君は、恋人の手を強く握り締めた。彼が振り向く、魔法で呼び出した光を掲げて、優しい声が返ってきた。
「大丈夫、私が居る」
 それだけで、全ての不安は消えていく。姫君は、同じように微笑んだ。
「はいですわ、セイル・・・」
 二人は街中に忍ぶ時のような、目立たない軽装を纏い、特に荷物らしいものといえば、王女が胸に抱えた小ぶりの雑嚢(ざつのう)だけだった。
 その中には、当座の生活を支えるための、ほんの少しの金貨と宝石が入っていた。
 その他は、何もかも捨ててきた。
 セイリオスは、王女に国を捨てる意味を説き聞かせた。
 父や国を捨て、信じ守ってくれた全ての人々を裏切り、それでもなお、二人で生きる道を選ぶ覚悟があるかを問うた。
 ディアーナは、その上でセイリオスを選んだのだ。
 もはや迷いは無い。
 恐らく一生、国を捨てて逃げた卑怯者として、自責の念が自分を苛むかもしれない。
 だが、それでもこの恋を、捨てる事はできない。喩えこの場で、命を絶たれたとしても、お互いの手を離しはしない。
 強い決意の元、兄妹の仮面を脱いだ恋人達は、暗い地下の道を進んでいく。

 やがて抜け道の出口が見え、硬く閉ざされた隠し扉を、さだめられた呪文が開く。
 扉は音も無く開いた。
「待ってたぜ。案の定だったな」
 笑いを含んだ声に、二人が愕然とする。
 開いた扉の向こう。品の良い調度で整えられた室内には、大きな寝台が置かれ、その天蓋から降ろされた天幕の陰で、魔導士が皮肉な笑みを浮べていた。
「シオン・・・」
「手に手を取って駆け落ちか?おやすくないねぇ・・・ま、出た場所が嫁入り先ってのが、間の抜けた話だよな」
 相変わらず嘲りを含んだ声に、セイリオスは剣を握り締めた。
「ここは、どこですの?」
「俺の家さ、お前さんがこれから一生過す家だぜ」
 虜囚への宣言のように、相変わらず冷たい声が発される。
「ディアーナは渡さん・・・たとえお前を斬ってでも・・・」
 食いしばった歯の間から、セイリオスは擦れた声を絞り出す。魔導士は何時ものように肩を竦めた。
「お前さんに俺が斬れるのか?見せてもらおうじゃね〜か。だが、この部屋で暴れられちゃぁ、迷惑だ。庭に出な」
 軽く顎をしゃくり、そのままあっさりと部屋を出て行く。
 手を繋ぎあったまま、二人も後に続いた。
 
 前を歩く魔導士の背中を睨みながら、セイリオスは何度かこのまま斬りつけようかと考えた。だが、人としての矜持がそれを許さず、そしてまた、庭に出るとすぐに、そのまま駆け出したい欲求も、これ以上卑怯を重ねたくないという、尊厳が邪魔をした。
 不甲斐無い自分に歯噛みをしながら、魔導士が庭の中ほどで振り返るのを見詰める。
「此処なら良いだろう。良く逃げなかったな、誉めてやるぜ」
 まるでこちらの感情を読んでいるかのように、魔導士が笑う。
「お前を斬れば、全てが終わる」
 硬い声音に、魔導士は楽しげに笑った。
「お前が、俺を斬る?今まで俺が、お前の為にどれだけの事をしてきたか、判った上で、俺が斬れるのか?」
 嘲る魔導士には答えず、セイリオスは王女に振り向いた。
「ディアーナ、下がっていなさい」
「セイル・・・」
 不安に苛まれる愛しい女に、彼はゆっくりと微笑んだ。
「待っていなさい、すぐに戻る」
「はい・・・ですわ」
 頷きながら、姫君は一振りの短剣を取り出した。
「どこまでも、ご一緒いたします・・・」
 もし彼が倒れることがあれば、この短剣で操立てをする。
 決意を込めた眼差しに、セイリオスはしっかりと頷いた。
 ディアーナの為にも、負けられない。
「案ずるな・・・あの男は、私が斬る・・・」
 剣を抜き、魔導士に向きなおる。魔導士もまた、一振りの剣を抜き放っていた。
 対峙した両者は、無言で間合いを詰めた。
 月明かりに浮かぶ庭に、剣戟(けんげき)の音だけが響く。
 かつて戦場を渡り歩いた魔導士の太刀筋は鋭く、打ち込みは重い。右に、左にと受け流し、わずかな隙を狙って打ち返す。
 剣士としての技量は、セイリオスの方が上回っていた。彼が打込む度に魔導士は手傷を負っていく。
 冷静に相手の出方を見ながら、頭の隅でいぶかしむ。
 何かがおかしい。
 何故魔導士は、魔法を使わない?
 それに、何より不思議なのは、魔導士の得意であるはずの舌刀が無い。
 更に、命のやり取りをしながら、飴色の目は、無気味なほど静かだ。殺気を(みなぎ)らせ、相手を()めつける自分と、まったく対照といえる。
 あまりの奇妙さに、ふと、以前聞いた話が頭を掠め、その為に一瞬剣先が鈍る。
「貰った!」
 魔導士が笑い、セイリオスの胸を狙って剣が突き出される。
「セイル!」
 ディアーナの悲鳴。

 斬戟(ざんげき)の響き。

 全ては一瞬だった。

「う・・・」
 自分の胸に深々と突き刺さった剣を、魔導士が静かに見詰める。
 咳の発作とともに、(おびただ)しい血が吐き出され、黒いローブを赤黒く染めていく。
「シオン・・・」
 駆け寄った王女が、セイリオスに縋りつき、最後の時を迎えた魔導士の名を呟いた。
 姫君を見詰めながら、魔導士がかすかに笑う。
 こんな時でも、彼の目は静かだった。まるでこうなる事を覚悟していたかのように・・・
 


 血に濡れた手を下ろし、親友を屠ったセイリオスは、崩れかける魔導士を見詰めながら、小さく息を吐く。
「どこに居る?シオン」
「え?」
 意外な言葉に、涙ぐんでいた姫君が目を見張る。
「シオンは・・・ここに」
 指差す方によろけつつも立つ魔導士が居る。だが、彼は首を振った。
(あお)られて気がつかなかったのは、私の不覚だ。シオン、出て来い。木偶(でく)で私の相手になると思っているのか?」
 途端に、瀕死の魔導士が霧散した。からりと地面に落ちた血刀だけが残される。
「や〜れやれ。結構苦労したんだぜ。木偶に俺の真似させるの。見破りやがんだもんな」
 木立の間から、肩を竦めながら、今消え去った魔導士と寸分(たが)わぬ男が現れる。
「シオン!?」
 驚く王女に悪戯な笑みを浮べて、そのまま二人の前まで歩み寄ってきた。
 セイリオスは油断無く剣と自分の距離を測る。
「スト〜ップ。もうしねぇよ。慌てなさんな、話があるんだ」
 こちらの意図を敏感に察した魔導士が、慌てたように両手を突き出す。その態度には、今までのような嘲りも冷たさも無い。まるで以前の彼そのままのようだ。
「話?」
 それでも警戒を解かないセイリオスに、魔導士は大袈裟に肩を竦める。
「疑りぶかいねぇ、ま、俺が煽ったんだけどさ」
「いまさら何の話だ?」
 身構えたままの男に、魔導士は意外なほど無邪気な笑みを見せた。
「すまん」
「何?」
「悪かったよ、虐めて」
 セイリオスの眉間に皺が刻まれる。
「どういうつもりか言ってみろ・・・」
 たっぷりと怒気を孕んだ声に、魔導士の含み笑いが被る。
「くくく・・・知りたかったのさ。お前の覚悟がどれだけか。姫さんの為に俺が斬れるぐらいの覚悟が無きゃあ、これからの事はできねぇからな。共犯者としては知りたいのが当然だろう?」
 妙な事を言い出す。二人は思わず顔を見合わせた。
「共犯者?」
 いぶかしむ視線に、魔導士が頷く。
「ああ、これから、この国全部を相手に、大詐欺働くんだ。いざとなれば俺を斬り、姫さんを護り抜く。それだけの覚悟と度胸が、お前にあるのか、試させてもらった。それに、姫さんがどこまでこいつについて行けるかって〜覚悟もな」
 そうじゃないと、俺が可哀想だろう?狐に抓まれた面持ちの二人に向かって、戻ってきた花好きの魔導士が笑う。


 婚礼の儀式は、盛大な祝福の中に、厳粛に執り行われた。
 その式典は、長く語り継がれるのでは無いかと、煩方(うるさがた)ですら満足気に語り合うほどのもので、蒼い髪の美丈夫と、桜色の花嫁は、祝福と希望に輝いて、全ての幸福を一身に集めているかのように見えた。
 王都全体が、新たな一対の為に長い宴を続けているころ。新居では、新妻が夫の腕に抱かれ、そっと目を閉じた。


 カラリとグラスの中で氷が揺れる。
 新郎新婦の篭る部屋の窓へ向けて、無言の乾杯をした男は、ゆっくりと琥珀色の酒を飲み干した。
 庭に突き出たテラスに陣取って、新妻を抱いている筈の魔導士は、満面の笑みを浮べる。
「騙されただの、虚仮にしただの、散々ごねやがったが、首尾は上々・・・満足したか?」
 誰にとも無く一人ごちる。何が聞こえたのか、笑みが更に深まった。
「そうだな・・・おかげで苦労させられる」
 闇に向かって独り言が返された。
「ひっで〜言い草だな。お前が言い出したんだろう?」
 楽しそうに闇と会話する魔導士が、ふと首を巡らせる。
 結界を張り巡らせた庭を、誰かか抜けてくる。
 草を踏み分ける音が聞こえ、闇の中から、見慣れた紅い肩掛けが浮き上がった。
「初夜の床にいらっしゃると思っていましたが・・・酒盛りですか?」
 相変わらずぶっきらぼうな声を出し、緋色の魔導士が歩いてくる。
「よう、キール。出歯亀(でばがめ)に来たのか?今真っ最中だ、覗きに行くか?」
 これまた相変わらず、ふざけた声で魔導士が笑う。キールは大きくため息をついた。
「シルフィスから妙な事を聞きました。だから確かめに来たんです。予想通りでしたよ」
 勝手に男の前の椅子に腰を下ろし、緑の目が闇を見透かすように見返してくる。
「帰っていたんだな・・・メイ・・・」
 もともと寄せられた眉間が、辛そうな皺を刻む。青年の様子に、魔導士が笑った。
「聖霊を見る緋色の魔導士には、判ってるって訳か・・・メイ、姿を見せてやれよ」
 何かを撫ぜるように伸ばされた手に、絡みつくように、白い影が現れる。
 それは次第に一人の少女の姿を形作り、茶色の髪と目の娘が、照れたように笑って見せた。
――かなわないねー、キール。探偵になれるよ――
 以前と同じ明るい声が、空気を震わせずに、直接頭の中ではじける。
 青年は、更に眉を寄せた。
「メイ・・・魂だけなんだな・・・」
 確認なのか疑問なのか、青年の呟きに少女がこくんと頷いた。
――ま〜ね。ちょっち鈍くさいことしてさ、こんなんになっちゃった――
 屈託ない笑みのまま、魔導士の首に少女が絡みつく。
――あたし、こっちに帰りたかったの。向こうになんて行きたくなかったの・・・だから暴れた。もうめちゃくちゃにね。そうしたら、心が体から離れて、帰ってきたの――
 実体の無い影に蒼い髪を弄らせながら、魔導士がにやりと笑う。
「それで、どうするキール?お前さんには、事の次第が、粗方(あらかた)見えてるんだろう」
 青年は慎重に頷いた。
「ええ、殿下の例の噂は、俺も耳にしています。つまり貴方は、殿下と姫の隠れ蓑になったわけですね・・・」
 皇太子と王女、表向きには兄妹でありながら、血の繋がらないが故に惹き合う心。
 今生では添い遂げられない二人を、魔導士が偽りの夫となる事で愛の巣を作り出した。
――あたしがシオンに頼んだの。ディアーナと殿下を幸せにしてあげたいって――
 静かに微笑む少女を見ながら、緋色の魔導士は再び大きく息を吐いた。
「俺をどうしますか、シオン様?このまま口を封じますか?」
 魔導士は苦笑しながら酒を注ぎ、青年に差し出した。
「この酒で契約と行こうぜ。秘密を知った代償は自由だ、お前には、俺の補佐官になってもらう」
 無言で酒を受け取り、そのまま一気に飲み干す。強い酒に(むせ)ながら、青年が返すグラスに再び酒が注がれ、それもまた、一気に飲み干された。
「おいおい・・・その酒は普通舐めるもんなんだぜ」
 自分も同じような呑み方をしていたくせに、青年の勢いの良さを魔導士が笑う。そして彼の背で、少女も同じように笑っていた。
――弱いんだから、無理しちゃ駄目よ――
 軽い酩酊感を感じながら、揺れる視線で少女を見詰める。
「メイ・・・お前の体は、どうしたんだ?」
――ん〜?判んない。アリサも見失っちゃったらしくてね〜。元の世界に帰ったか、他の世界に行っちゃったか、それとも次元の間で粉々になったか・・・――
 もう一杯酒が欲しいと、青年はグラスを握り締めた。
「シオン様は、それで良いんですか?」
 青年の意図を読み取って、魔導士がグラスに酒を注ぐ。再びものすごい勢いで飲み干された。
「キール。俺は諦めが悪い男だぜ。でなけりゃ、メイをこうして自分に縛り付けたりしない。こいつの体も・・・何時か取り戻す」
 決意を込めた声音に緋色の魔導士は頷き、ふらりと立ち上がろうとして、そのまま椅子に崩折れた。
「お手伝いしますよ・・・メイがこのままじゃ・・・シルフィスも悲しむ・・・」
 ろれつの回らない口でそれだけ搾り出し、急速に回った酔いの中で、睡魔に意識を手渡した。
 
 眠り込んだ青年を、苦笑しながら少女が覗き込む。
――相変わらずお酒に弱いわね〜・・・でも、ありがと、キール――
「メイ・・・」
 白い影に戻りかけた少女を、魔導士が呼ぶ。
 ふわりと宙をすべり、伸ばされた腕の中に小柄な影が収まった。
「俺は諦めないぜ・・・」
 再び繰り返す魔導士に、影が頷く仕草を返す。
――ん。判ってる・・・いざとなったら、あの木偶ってのもあるしね〜――
 魔法においてはクラインを凌駕していた、ダリスが齎した下法。
 創造魔法を真似、土や木を使い創り出される人形である。
「莫迦ぬかせ。んなものがお前の魔力支えきれるかよ。下手をしたら魂ごと消滅だ」
――うっ怖っ――
 首を竦める影に、飴色の目が切な気に揺れる。
「お前に触れたい・・・お前を抱きたい・・・」
 懇願するような声に、ともすれば突き通ってしまう手が、そっと頬を撫ぜる。
 柔らかな魔力の波動だけが、魔導士の頬を滑っていく。
――じゃあ、眠って・・・夢の中で、あたしを愛して・・・――
 この魔導士の為に体を捨てた。彼の腕に抱かれる事だけを望んで、この世界に帰ってきた。
 夢の中だけの逢瀬だとしても、二人で時を刻める幸福に、少女が笑う。
 魔導士はそっと目を閉じた。
 春の夜気の中、眠る魔導士に、白い影が覆い被さり、そのまま染み込むように消えていった。



END